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革靴がなかった時代、日本人の足元には何があったのか

公開日:2026-09-06

革靴がなかった時代、日本人の足元には何があったのか

明治以前の日本に「靴」はなかった。代わりに草履・下駄・わらじが足元を支えていた。その違いは単なる素材の問題ではなかった。

玄関で靴を脱ぐ習慣は、日本の文化として世界でも知られている。

しかし「靴を脱ぐ」文化が定着したのは、そもそも靴を履く文化が広まってからのことだ。明治以前の日本人が足元に履いていたものは、草履・下駄・わらじであり、それらは現代の靴とは全く異なる道具だった。

今、当たり前にあるもの

現代の日本では、革靴・スニーカー・ブーツ・サンダルなど多様な靴が日常的に使われている。スポーツ用・ビジネス用・カジュアル用と用途に応じて履き替えることが普通だ。

靴の素材も革・合成皮革・布・ゴムと幅広く、機能性と デザイン性を兼ね備えた製品が年々更新されている。日本の靴市場は年間約8億足規模に達している。

それがなかった時代

江戸時代の日本人の足元を支えていたのは、主に三種類の履き物だった。

「草履(ぞうり)」は藁・竹皮・い草などで編んだ平らな履き物で、庶民から武士・公家まで広く使われた。鼻緒を親指と人差し指で挟んで履く形は、現在のビーチサンダルに通じる。

「下駄(げた)」は木を台にして高くしたもので、雨や泥から足を守る実用的な道具だった。歯の高さや形によって用途が異なり、雨の日専用の「歯の高い下駄」もあった。

「わらじ」は藁で編んだ靴に近い形の履き物で、長距離を歩く旅や農作業に使われた。消耗が激しく、旅人は予備のわらじを持ち歩いた。

どう変わってきたか

日本に西洋式の靴が入ってきたのは幕末から明治初期のことだ。1870年(明治3年)、西村勝三が東京・築地に日本初の靴工場を開設した。政府が軍の近代化のために軍靴の国内生産を推進したことが、靴産業発展の起点となった。

文明開化の流れのなかで、洋装と靴が都市部から普及し始めた。しかし農村部ではわらじや草履が昭和初期まで使われ続け、靴が全国に広まるのは戦後のことだ。

浅草は現在も革靴・婦人靴の産地として知られており、明治以来の靴づくりの歴史が続いている。

足元が変えた体と文化

草履や下駄で生活していた時代、日本人は足の指で地面をつかむように歩いていたとされる。鼻緒を挟む歩き方は体幹を使い、姿勢にも影響していた。

靴が普及するとともに歩き方も変わり、足の指が退化するという指摘も出ている。また、靴を脱ぐ習慣が残る日本の家屋構造は、靴文化が根付いたにもかかわらず変わらなかった。外と内を分ける「玄関文化」は、今も日本の住まいの根底にある。

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