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学校がなかった時代、子どもたちはどこで何を学んでいたのか

公開日:2026-07-29

学校がなかった時代、子どもたちはどこで何を学んでいたのか

義務教育は当たり前ではない。学齢期の子どもが全員学校に通える状態は、近代になって作られた仕組みだ。

近代的な学校制度が日本に整備されたのは、1872年(明治5年)のことだ。

小学校に入学し、中学校を卒業するまで9年間の義務教育を受ける。これは当たり前のように見えるが、国が子どもの教育を保障するという仕組みは、日本の歴史の中ではごく最近のことだ。

今、当たり前にあるもの

現在の日本では小学校6年・中学校3年の計9年が義務教育で、費用は原則無償だ。公立学校では授業料がかからず、教科書も無償配布される。

高校進学率は98%を超え、大学・専門学校への進学率も60%に迫る。学校での教育内容は学習指導要領で定められ、全国の学校でほぼ同じカリキュラムが実施される。

外国語教育・プログラミング教育など、時代の変化に合わせたカリキュラム改訂も続いている。

それがなかった時代

近代学校以前、子どもの教育は家庭・地域・身分によって大きく異なった。

江戸時代には「寺子屋(てらこや)」が存在した。民間の教育機関で、僧侶・神官・浪人などが師匠となり、読み書き・算盤(そろばん)・礼儀などを教えた。農村部にも普及しており、江戸時代末期には全国に数万の寺子屋があったとされる。

しかし寺子屋は義務ではなく、通わせるかどうかは家庭の判断と経済力による。農繁期には農作業を優先して休む子どもも多かった。女子は通わせない家庭も多く、教育機会は性別によっても格差があった。

武士の子どもは「藩校(はんこう)」で学んだ。儒学・剣術・漢学が中心で、藩の将来の人材を育てる目的があった。しかしこれも武士に限られた教育機会だ。

農民・職人・商人の子どもは、多くの場合「親の仕事を見て覚える」が教育の基本だった。農業・大工・商売——それぞれの職業の技術は、家庭内での見習いと実践で受け継がれた。

どう変わってきたか

1872年(明治5年)、明治政府は「学制」を公布した。全国に学区を設け、すべての子どもが小学校教育を受けることを目指す制度だ。「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という言葉が残っている。

当初の就学率は低かった。農家にとって子どもは大切な働き手であり、学校に通わせる余裕のない家庭も多かった。また授業料が徴収されたため、貧しい家庭には負担だった。

就学率が上がり、義務教育が定着していくのは明治後半から大正にかけてのことだ。教育が義務となり、授業料が無償化されることで、すべての子どもが学べる環境が少しずつ整っていった。

「学制」が変えたもの

明治の学制は、教育だけでなく社会のあり方を根本から変えた。

それまでの日本社会では、身分によって生き方が決まっていた。武士は武士の教育を受け、農民は農民として育ち、商人の子は商人になる。教育は「身分に応じたもの」だった。

近代学校は「誰でも同じ教育を受けられる」という仕組みを作った。農民の子でも学問を修めれば医師・教師・官吏になれる道が開かれた。これは身分制度の解体と同時に進んだ変化で、「努力次第で道が開ける」という考え方の基盤になった。

教育機会の均等は、社会の流動性を高めた。「学校がある」という当たり前の裏に、「どんな家に生まれても学べる」という近代社会の理念がある。

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