消防署がなかった時代、火事はどうやって消していたのか
公開日:2026-07-19
119番を押せば消防車が来る。その前の時代、江戸の町では火事と向き合う独自の仕組みがあった。
近代的な消防制度が日本に整備されたのは、明治時代以降のことだ。
119番に電話すれば数分で消防車が来る。専門の消防士が、大量の水と最新の装備で火を消す。この仕組みを当たり前のものとして暮らしているが、組織的な消防が存在しなかった時代、火事との向き合い方はまったく異なっていた。
今、当たり前にあるもの
現在の日本の消防署は、都市部では消防車が出動して8分以内に現場到着することを目標としている。ポンプ車・はしご車・救助工作車など目的別の車両があり、高層ビルの火災にも対応できる。
消防士は火消しだけでなく、救急業務・救助活動・防火指導も担う。日本の119番は救急(救急車の要請)にも対応しており、消防と救急は一体で運用されている。
住宅用火災報知器の設置が義務化されており、早期発見・初期消火の意識も高まっている。
それがなかった時代
江戸時代の江戸(東京)は、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、火災が頻発する都市だった。木造密集地帯に火鉢や行灯(あんどん)の裸火が多く、乾燥した冬の季節風が火を広げた。
江戸の消防は「町火消(まちびけし)」と呼ばれる組織が担っていた。各町に「いろは組」と呼ばれるグループがあり、火事があると纏(まとい)と呼ばれる旗を持って駆けつけた。しかし彼らの主な役割は火を「消す」ことではなく、「延焼を防ぐ」ことだった。
水をかけて消すより、燃えている建物の隣の家を壊してしまう「破壊消防」が基本だった。火の進行方向の建物を事前に取り壊し、燃えるものをなくすことで延焼を止める。これは当時の技術では最も効果的な方法だったが、被害は甚大だった。
どう変わってきたか
明治維新後、西洋の消防制度が導入された。1880年(明治13年)に東京で消防本部が設置され、専任の消防士による組織的な消防が始まった。
当初は手押しポンプによる水の放水が中心だったが、やがてガソリンエンジン搭載のポンプ車が登場し、大量の水を高圧で放水できるようになった。水道の整備と消防の近代化は並行して進み、「水で火を消す」消防が標準になった。
戦後、各市町村に消防本部が整備され、現在の全国的な消防制度が確立した。
纏持ちは命がけの仕事だった
江戸の町火消には、「纏持ち(まといもち)」という役割があった。
纏とは大きな飾りのついた旗で、消火活動の目印となるものだ。纏持ちは燃えさかる建物の屋根の上に登り、纏を振って仲間の位置を知らせる役割を担った。火の粉が降り注ぐ中、屋根の上で纏を振り続けることが仕事だ。落下すれば死ぬ。燃え移れば死ぬ。最も危険な場所に立つことが求められた。
纏持ちは若者の花形の役職とされ、度胸と体力が称えられた。刺青を入れ、半纏を着て、祭りのように担ぎ出す纏——そこには「火に立ち向かう者の誇り」があった。
現代の消防士も、命の危険と向き合う仕事であることは変わらない。装備と技術が変わっても、火に立ち向かう側の覚悟は江戸の纏持ちから続いている。